木野の山歩き


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プロフィール

自己紹介



  木野光一郎 キノコウイチロウ といいます。
 1936年、市川市の生まれ。60年以上前の高校2年の時、中学の恩師に連 れられて初めて3千メートル峰の燕岳から槍ヶ岳、穂高岳の縦走を行い山 歩きにはまりました。以来、丹沢を手はじめに、南、北、中央アルプ ス、八ヶ岳など多くの峰に登ってきました。読売新聞社在勤中は社内の 山岳会の仲間と歩き、83年に日本山岳会に入会しました。シーズンを問 わず出掛け、かつては単独行も多くテント生活を好みます。
 2001年4月から、読売文化センター横浜・大森で山歩き講座を担当、そ の後、新宿、横須賀、八王子・町田、金町・町屋・京葉センターで計8つ 開講しました。09年秋に胃を患い一時は代講をお願いしましたが10年9月 に閉講しました。
 昨秋に心臓弁膜症の手術をし、今年の正月には餅つき大会の準備中に 背骨を骨折し手術をしました。
 毎日、近くを散歩してリハビリに励んでいます
住  居
  神奈川県秦野市に妻と二人で住んでいます。
趣  味
  山のことならなんでも、山の本も集めています。病後、お酒が弱くな りました。暇があればパソコンの前に座っています。 
ご 連 絡
  わたしへのメールは こちら 
 


私 の 山 歴

 「ホームページの内容が膨大なので、どこから見ていいのか分からない」と旧友か ら便りを頂きました。たしかに、一緒に山歩きをした人は自分の見たいところに直 ぐ?いけると思いますが、初めて見る方には分かりずらいかも知れません。そこ で、わたしの山歩きの履歴を書きました。長くなりますが、お付き合いください。

  初めての山
 私が生まれ育ったのは千葉県市川市、見渡しても山らしいものは見えません。市 内唯一の“山”といえば手児奈霊堂の先にある「ママサン」、眞間山弘法寺のある高 台のことでした。1947年、市川小学校4年の時、新任の関先生がわたしの組だけ高 尾山に連れて行ってくれました。学校始まって以来初めての、電車に乗る遠足だっ たそうです。戦争でケーブルカーの施設が供出されていて、当時は浅川と言ってい た高尾駅から歩いて登りましたが、これが初めての山歩きでした。
 49年、市川一中に入って夏は大勢でキャンプに出掛けましたので、山中湖周辺の 石割山など、志賀高原の山々、浅間山などを歩きました。
 
  初めての3000メートル峰
 千葉工業高校2年生の53年の夏休み、中学の寺沢先生と同窓2人と計4人で北アル プスに出掛けました。中房温泉から登り、燕岳から槍ヶ岳、北穂、奥穂高岳、上高 地といきなり核心部を歩いたわけです1950年代の山。トレパンに運動靴、小屋 に泊まるためのお米と毛布を3つポケットのザックで背負って。戦後の第一次登山 ブームでしたが、山小屋に泊まるには宿泊料の他に1泊につきお米5合の持ち込みが 必要でした。しかし、天候に恵まれ「日本にこんなにすばらしい景色があるんだ」と 感激の毎日。これで、すっかり山にはまってしまったわけです。

  テント担いで縦走
 55年、読売新聞社に入社、職場の先輩や同僚らとの山歩きが始まりしました。丹 沢や奥多摩の日帰り、秩父や八ヶ岳、尾瀬の小屋泊まり、テントを担いで北アルプ スや南アルプスと、だんだん対象が広がっていきました。テント泊の初期は米軍放 出のテントやシュラフ、マットは炭俵でした。労組の専従役員になった5年間はさ すがに登れませんでしたが、職場に復帰した72年7月、後輩が「ご苦労さん」と北ア ルプスの縦走に誘ってくれました。小屋泊まりながら3人で槍ヶ岳から劔岳までの 長い縦走、天候に恵まれご機嫌な山旅でした。5日目に立山まで行ったとき、「温泉 に入りたい」というわけで一ノ越から地獄谷に下って一泊、翌日登り返して立山三 山を縦走して劔御前まで歩いたところで時間切れでした。温泉に下らなければ劔本 峰まで行けたのですが欲がなかったというか1970年代の山  

  家族旅行は山のキャンプ
 63年に結婚、二人の男の子が歩くようになってから家族旅行と言えばザックを担 いでのキャンプ、山旅でした1960年代の山 1970年代の山。カミさんの故 郷秋田の鳥海山から青森へ赴任している後輩の家に世話になっての八甲田山もいい 旅でした。「家族で3000メートル」の御嶽山、甥っ子も連れて八ヶ岳。カミさんが 「温泉に入りたい」というので大きなザックを担いで半日歩かしたり。会社では読売 山岳会の世話焼きとして、毎年夏にバスを仕立てて1泊のハイキングを行い、これ にも家族で参加しました。冬は菅平などへスキーバスを出しました。

  雪山の魅力に
 58年ごろから雪山へ行くようになりました。初めは友人から借りたピッケルを持 って日光白根山や谷川岳山麓、テントを担いで南ア鳳凰三山、八ヶ岳などでした が、60年3月には読売山岳会の合宿で北アルプスの唐松岳に。その後は、南アの仙 丈岳と甲斐駒ヶ岳、先輩と二人で雪洞で2昼夜を過ごした中央アルプスの木曽駒ヶ 岳、北アの鹿島槍ヶ岳、蝶ヶ岳や燕岳から大天井岳、八ヶ岳の南部縦走や天狗岳。 一人でテントを担ぎスキーを履いても出掛け、尾瀬の平ヶ岳、北アの穂高や乗鞍岳 に。富士山に次ぐ高さの南ア北岳は仲間と2回目の挑戦で78年1月に登ることが出来 ました1980年代の山
 中でも、99年3月雪の上高地に5泊の定着で一人過ごした日々は忘れられません。 夏の喧噪が嘘のように、聞こえるのは梓川の川音とものすごい風の音だけ。河童橋 の上で「雪の上高地に俺一人だぞ・・」と怒鳴ったものです1990年代の山

  日本山岳会入会と山書
 山のことならなんでも、ということで山の書物を集めています。あるとき会社の 先輩に「それなら山岳会に入れば古書交換会があるよ」といわれて、83年に不純な動 機で日本山岳会に入会しました。それ以来、活動らしいことは何もしないで今に至 っておりますが、多くの知識を与えてもらっています。お陰で山書は1600冊以上持 っていますが、手に入れたまま読んでないものも多いです。 

  文化センターで講座開講
 96年読売新聞社の定年後、社内のパソコンセンターで契約社員として働いていま した。2001年に上司から「読売文化センターで山歩きの講師になって欲しいと言っ ている」と言われました。前任者が体調を崩したそうで、「将来に続くからこっちの 仕事をしながらでいいから」と。上司はかつて横浜のS支配人と同僚で、名指しだ ったそうです。好きなことをやらせてもらえるならと、その場で引き受けた次第で す。こうして4月から横浜センターに「神奈川と周辺の山歩き」と「近県のんびり山歩 き」の二つの講座を開きました。“丸投げ”なので山行計画からバスやタクシーの 手配、当日の出欠まで一人でやることになります。幸い中学同窓の岡田君が手伝っ てくれ、その後、読売の岳友たちとそのご夫人などがサポーターとして参加してく れ、たいへんありがたいことでした。みんなリーダー格の人ですが、責任を感じる といけないと思いあえて“サポーター”と呼び、9人でした。

  講座100回記念パーティ
 講座が好評とのことで、大森、新宿、八王子、町田、横須賀、金町、町屋、京葉 のセンターが名乗りを上げ、8つの講座となりました文化センターの山歩き
 毎月の現地講座の合間にコース選定、手配、案内文書作成、また下見山行など忙 しい毎日となりました。しかし、好きなことですから苦になったことはありません でしたが、たいへんなのはカミさんで、早朝からの弁当作り、行動中の安否など苦 労させました。09年7月、最初の二つの講座が100回目を迎えたので、当時の横浜支 配人で会員でもある野田さんの肝いりで記念パーティーが開かれました。90人もの 会員が横浜の会場に集まってくれ、感激の一夕でした講座同窓山行と番外編 

  登山1350回、オプション山行も
 読売の古くからの仲間たちともよく歩き、合宿と称して北ア、南ア、八ヶ岳など にテントを張りました。それらが積もって08年4月26日、初歩の近県山歩き の棒ノ 折山が千回登山となりました。会員さんがシャンパンを抜いて祝ってくれて嬉しか ったです。因みに現在の登山回数は約1350回、このうち700回あまりが講座で歩い たものです。講座のオプションとして春と秋にお泊まり山行も行いました。貸切バ スで北アの焼ヶ岳、燕岳や常念岳、そのほか尾瀬、雲取山、黒斑山、木曽駒ヶ岳、 燧ヶ岳、日光白根山、八ヶ岳などたくさんの山に登ることが出来ました。「なかな か個人では登れない山に登れた」と好評でした。

  3千メートルの21峰
 わたしはあまり記録にはとらわれない方で、“日本百名山詣で”が流行っていま すが、これは深田久弥という山好きな作家が個人的に著したものです。わたしは偶 然70ほど登っていますが残りをあえて埋めようとは思いません。それぞれ“自分の 百名山”を目指すのがよいと思っています。
 しかし、一つだけ達成したいと思ったのが日本にある3千m超えの21峰に登るこ とでした。これも偶然20峰を登っていることが分かったからで、残っていたのは南 アの悪沢岳。05年10月岳友和井田夫妻と出かけましたが吹雪になり撤退、06年は台 風で静岡からの道路が決壊、07年は大雨で撤退、09年8月4年目にやっと登ることが 出来て念願が叶いました2009年の山

  体調崩し講座を閉じる
 前記の悪沢岳からの帰り、静岡駅のすし屋で打ち上げとなりましたが、食欲が なく酒も進みませんでした。9月に入り、ある講座の“反省会”で「最近おかしい、 歩くのが遅くなったし大儀そうだ」「明日にも病院へ行かなければ講座をやめます」 などと諭されました。翌日、秦野日赤へ行くと胃カメラ検査をと。結果は「胃がん なので手術」でした。講座が心配でしたが医者に従うしかなく、とりあえず09年10 月期は各講座毎の“自習”にしてもらいました。「事務職なら半年で出社できる」と も聞いていたので高をくくっていましたが、抗がん剤の副作用がひどく痩せてしま いました。10年4月期はサブリーダーに代講をお願いして凌ぎましたが、体調は皆 さんを連れて登るほどには回復ならず同年9月で閉講を決めました。締めとして10 月2日、我がウラヤマの弘法山で“講座解散会”を開いたところ110人余の方々が集 まってくれ、家内共々感激の一日となりました講座同窓山行と番外編
 講座に参加された皆さんはもとより、献身的に支えてくれたサポーター:サブリ ーダーの皆さんにはお礼の言いようもありません。陰で支えてくれたセンター職 員、家族に感謝しています。
 心臓弁膜症で手術
 2014年7月、息切れがし酒が進まないと胃の術後診療に当たっている日赤外科の 先生に言うと内科の先生を紹介されました。診断は「心臓の大動脈弁が老化で硬く なっている。直ぐでなくていいがいつか交換手術を」とのこと。先延ばししていま したが15年7月に「70歳台のうちに手術をすれば長生きしますよ」と言われ、東海大 学病院を紹介してもらいました。同年10月に入院して人工弁に交換手術、再びしば らく山歩きを休むことになりました。この間、講座同窓山歩きの世話焼きをまたサ ポーターの皆さんに変わってもらいご苦労を掛けました。

 これからの山歩き
 1987年、仕事の都合で千葉県から今の秦野市のマンションに越してきました。 ここは丹沢山麓、昔歩いた山を一人で歩いていましたが、97年にマンションの人た ちと「山の会」を作り一緒に歩き始めました。「神奈川の山を登り尽くそう」が合い言 葉でだいぶ登りました。最近は、年齢が上がってウォーキングが多くなりました が。
 これからの山歩きですが、動けるようになったら行動を再開したいと思っていま す。また、撮りためた写真や山で出会った花 の整理、木野の山歩きABCの充実 を図ったり、読まずに積んである山の本に手を出すこと、なども懸案です。これか らも引き続き山と関わっていきますますので、お付き合いください。                                2011.08.16 / 2017.09.15改


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